Kensuke Esato,M.D.
江里 健輔
 
江里 健輔
山口大学名誉教授
山口県立大学学長・理事長
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その他

あなたの言葉は「こころ」を元気にしていますか?
2006年01月14日

     あなたの言葉は「こころ」を元気にしていますか?
                    山口県立中央病院長
                           江里 健輔



NHKで多くの名番組を生んできた吉田直哉さんは10年前、食道ガンを告知され、2年の寿命と宣告されました。彼は「俺は意地でもガンで死ぬわけにはいかない」と手術を前に、病室のベットに横たわりながら決心したという有名な話しがあります。今も元気です。ある有名な病理学者が『人は心で生きている』と述べていますが、吉田さんはまさにこれに当てはまります。このように、生命には科学のみでは計りしれない「何か」があります。
大学病院に37年間勤め、曲がりなりにも研究に携わってきた者が治療成績を決める大きな要因の一つが「心」であると強調するようになろうとは夢にも思いませんでした。目の前に明かりが見えない病魔に襲われ、しかも、大学病院では経験しなかった赤裸々な苦痛と悩みを打ち明けられる患者さんに接する度に、これまで自分が経験してきた医療が片手落ちであったと認めざるを得ないことに砂を噛むような寂寥感に襲われる毎日であります。医師の患者さんに対するコミュニケーションの拙劣さから生じる患者さんの不平・不満が病院に寄せられるのを契機に、毎木曜日、一人1時間かけて、じっくり患者さんの話を聞いてあげるセカンド・オピニオン外来を西日本ではいち早く立ち上げて1年8ヶ月が過ぎました。相談内容は「自分の病気は今後どうなるか?」「今受けている治療よりさらに優れた治療はないか?」など多種多彩ですが、技量への不満は想像していたより少なく、言葉の不足から生じている不満・不安が多いのに驚かされました。

48才の女性、エアロビックスをしている最中に、右乳房に約2cmでなんとなくゴツゴツした固い、触っても痛くないしこりに気づき、頭が真っ白になり、エアロビックスも、街を走っている自動車も、スーパーマッケットも自分とは関係ない別世界のものに見え、自分だけがこの世に生きているような孤独感に襲われたそうです。主人に打ち明けたところ、
「すぐ、医者にいけ、すぐに!!」
と叫ぶだけで、それでいかにも主人の責任が果たせたようにあっけらかんとしている態度に、さらに、極度の苦渋にさいなまれているのに、「医者へ行け」の一言で、思いやりの言葉の一つも発してくれない主人に腹立たしく、にがにがしい憤りを覚えるばかりであったということです。
高まる鼓動を押さえながら、病院に足を運び、診察室で
「顔色が悪いがどうしたんですか?」
と質問され、右のお乳にしこりがあるのに気づき、乳ガンではないかと訴えたところ
「それは私が決めることで、乳ガンと思われるなら、医者へかかることはないじゃないですか?」
医師は患者さんの右乳房を片で触り
「乳ガンですなあー、超音波エコーとマンモグラムをしましょう。看護師さん、患者さんをすぐ放射線科へ案内して・・」
看護師さんの言われるままに検査を受けて、
「やっぱり、乳ガンですなあ」
医師はシャーカステンの写真を見ながら、他人事のようにそう言った。そこには患者さんへ思いはなく、単なる伝言にすぎませんでした。
「明日、生検をしましょう、明日、10時に予約しておきますから、外来に来て下さい」
患者さんは訳がわからぬまま、そのまま、あくる日に生検を受けました。迅速標本の結果
「乳ガンと思ったんですが、乳腺症でした。それにしてもおかしいなあーーー、乳ガンではありませんので、帰られていいですよ」
まさに天にも昇る気持ちで“この先生はなんとすばらしい先生だろう”と心の中で両手を合わせ、神に拝む気持ちであったそうです。
乳ガンでなかった、乳ガンから解放されたと思うだけで、ルンルン気分で、心が躍る毎日であったのですが、1週間後、病院からの電話で
「永久標本の結果が出ました。やはり、私が思ったように乳ガンでした。間違いなくて良かったです。来週、手術しますので、入院して下さい」
心の中で“どうして!!”と思うのが精一杯で、後に続く言葉を見つけることができなかったそうです。何も判らず、医師の言われるまま手術を受け、幸い、経過は良くて、まがりなりにも体は健康で、心は不健康な状態で7年が過ぎました。しかし、患者さんにとっては7年前の出来事が忘れられず『どうして乳ガンでないと言われ、また、乳ガンと診断されたのだろうか?病気はこのように変わるものであろうか?乳ガンの程度は?』という疑問が次から次へ湧いて、どうしても、自分を手術してくれた医師を許せなくなり、毎日、悶々としていました。そのような折り、テレビでセカンド・オピニオン外来があることを知り、受診されました。
患者さんはこれまでの気持ちを涙ながらに私に訴えられ、『どうしてこのようなことが起こるんでしょうか?』と問われました。
迅速標本診断には限界があること、このように良性と診断しながら、固定標本で悪性と診断することは希にあり、避けられない、難しい診断であることなどを理路整然とゆっくり時間をかけて説明したところ、患者さんは『7年間の鬱積していた悩みが霧散し、すっきりしました』と何度も何度も頭を下げお礼を言われました。
「どうして担当医に聞かれなかったんですか」
「なんとなく、質問してはいけないような、また、質問できる雰囲気じゃなかったようです。医師も、私も!!」

最近は医療の質が問われ、国民の重大関心事となりました。これは1990年に起こった横浜市立大学病院での患者取り違え事件からです。このような事件は日本だけではなく、諸外国でも発生しています。アメリカでは、1994年、ハーバード大学医学部関連病院のダナファーバ癌センターで、有名なマスコミの方が医療事故でなくなるという事件、イギリスでは、ブリストルの王立小児病院で、ある特定の小児心臓外科医の手術死亡率が異常に高いという事件などであります。それまでは何かが起こらなければ事件は省みられない時代でしたが、これらの事件を契機に医療を医師に全面的に委ねることの危険性が認識されてきました。
医療は不完全であり、すべて結果論であります。医師は人間であるので間違えることはあります。しかし、「 To err is human」と如何に居丈高に叫んでみても、結果論でかたづけられますし、亡くなったいのちが返る訳ではないので、ひたすら低頭するしか対応策を持ち合わせていないのが現場の姿であります。

医療の質の良否を規定するものは「安全」であること、続いて「良い結果」を作ること、それらのことで患者さんが「満足」することであります。ここで紹介した患者さんは安全な治療を受け、結果も良好であったにも係わらず、「満足感」がなく、憤りのみが残されています。患者さんにとっても、医師にとっても悲しいことです。

医療訴訟になるには常に2つの側面があります。一つは医療側に明らかなミスがある場合です。もう一つは医療側には何のミスもないのに、医療の内容に対して患者さんが納得せず、医師の説明にも耳を貸さず、訴訟になる場合であります。最近は後者の事例が増えているようです。結果が保障出来ない医療では、診断・治療前に納得して貰うには心くばりのある綿密なインフォームド・コンセントとコミュニケーションしかありません。これを全うする手段は「言葉」です。

医療の質の根幹をなすものは診療の質であります。診療とは医師が患者さんを診る行為、行動です。したがって、その評価には技術的なことが含まれることは当然ですが、それが正しい判断のもとに、タイムリーに行われたか、また、患者さんが納得するような作業が為されたかどうかも評価の対象となります。これを決めるものは医師の患者さんに対する関心の度合い、共感する態度、または、繊細な感受性などをもって患者さんに接する接遇能力であります。いずれも、不十分なコミュニケーション、すなわち、言葉が不十分であれば、その評価は極めて低くなります。
言葉にはメッセージを伝えることと、思いを伝えるという2つの役目があります。最近は仲介があまりに多すぎて、言葉が単なる伝言になりつつあります。つまり、厄介が多すぎるのです。例えば、新幹線を下車する時、「ホームと列車の間が広く空いていますので、ご注意下さい」とか「携帯電話を車中でおかけになりますと、他人の迷惑になりますので、デッキでお願い致します」など、などこれでもか、これでもかと注意してくれます。以前はこのようなことは母親が、友人が、あるいは先輩が注意してくれたものです。それには人間味があり、愛情がほんのりと感じられたものです。しかし、マイクから吐き出される言葉には人と人とのぬくもりのない単なるメッセージにすぎません。思いのない言葉は人の心を打つ重みがないので、診療に用いられる言葉はメーセージであってはいけません。思いがこもっていなければいけません。7年間悩まれた患者さんに対しての言葉には医師の思いがありませんでした。これでは患者さんが満足される筈がありません。「辛いでしょうね」、「一緒にこの病気と闘いましょうね」、「まだまだ、これから良い治療法が開発されると思いますから、それまでは辛抱強く、この治療をつづけましょう」などと希望をもった、慈悲のある言葉をどうして患者さんに投げかけて上げられないかのと本当に残念でなりません。
「日本人にはユーモアがない」とか、冗談が少ないということが日本人のステレオタイプとでして通っています。しかし、言葉に少しでもユーモアがあり、一緒に冗談を言えると親密度が増し、より相手を知ることが出来、共感を覚え、仲間意識を強めることが出来るので、患者さんと同じ目線になれます。このことは病気にさいなまれ、極度の不安と孤独感にある患者さんにほのぼのとした情緒感を与え、「この先生は私の悩みを共有してくれる、この先生に頼っていれば、助けてもらえる」と思わせることになります。
患者さんに安心できる最適な治療を提供することが重要であることは当然ですが、心を癒す「言葉」をかけて上げることも心理的治癒を高めることになり、治療の両輪であろうと思います。医学・医療が進歩するにつれて、後者が疎んじられているように思えて仕方ありません。
花田貴博さんはある雑誌に
「医師には病気を治すほか、診察にきた人がどうすれば楽になるか、安心できるかに心を砕く姿勢を求めたい。医療を必要とする人が病院で生き続けるのではなく、地域で生きて生けるようなサポートをしてくれる存在になって欲しい」
と医師へ注文しています。
大学在籍中には立派な医師を養成するにはしっかりとした医学知識を授けることが至上命令と受け止め、頑張ってきた積もりですが、片手落ちであったと責められても反論できない立場にあることを悔やみながら、医学部にも患者さんの「心を癒す」ためのノウ・ハウを教える「癒しの講座」があってもいいのではないかと痛感しているところです。


Medical Essays(日本医事新報、No.4222)



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