Kensuke Esato,M.D.
江里 健輔
 
江里 健輔
山口大学名誉教授
山口県立大学学長・理事長
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保身医療になっていませんか? NEW
2006年09月26日

保身医療になっていませんか?
      山口県立大学理事長(学長)
               江里 健輔


国立のガン専門病院などで構成されている「全国ガン(成人病)センター協議会」(30病院)の加盟施設研究班が98年に初めて入院治療を受けたガン患者の5年生存率を報告した(朝日新聞2006,7,11)。成績のバラツキをなくすために50人を超える患者を治療し、遠隔成績が90%以上判明している病院と限定しているので、信用性が高いと考えられますが、それによると、5年生存率は胃がんでは最高70.1%から最低42.3%,肺がん43.5%〜18.3%,乳ガン92.6%〜79.0%と、5年生存率の高い病院と低い病院の格差は胃ガン27.8%,肺ガン25%、乳ガン13.6%であった。この報告の中で注目すべきことは症例数が多い病院が必ずしも高い生存率ではなかったことである。ちなみに同研究班は97年にも同様な調査を行い、その時の5年生存率の格差は胃ガン17.0%,肺ガン19.8%,乳ガン13.0%と僅か1年間で格差が増していることである。ご承知のように、現在ではガン手術の長期成績は所属リンパ節の廓清程度で左右されるというのが定説である(数年後にはこの定説も崩れるかもしれないが・・・・)。ガン手術が他の手術より難しいのはリンパ節廓清を最小の出血で、他臓器を損傷しないように徹底的に行うことである。この技術を完全に取得するには少なくとも10年以上の経験が必要である。私の時代の外科医は専門分野が今のように明確に区分されていなかったので、あらゆる領域の手術に携わってきた。多くの胃手術も行ってきたが、例えば、胃部分切除では術後早期には吻合部の通過障害があっても、遠隔期には、逆に食事も正常人と同じように摂取され、栄養状態も良好な印象がある。勿論、これは私の個人的経験で、科学的根拠に基づいていないので、信憑性に欠けるが、まんざらの戯言ではないような気がする。同じような経験の持ち主の外科医も多いだろうと思われる。ガン手術もリンパ節廓清をしなければしないほど術中出血量も少なく、手術時間も短く、合併症もなく、早期に回復し、術後早期成績も良好である。患者を元気に復帰させることは手術の絶対的条件であり、患者は勿論、まわりの関係者もこれで完治したと喜ばれる。徹底的なリンパ節廓清で、術後合併症を来すことなく退院して貰うことが最終目標であるが、徹底的なリンパ節廓清と早期成績は表裏一体であるため、予想通りにならない場合もある。これで、患者の状態でどの程度の手術をすべきか悩むことになる。
医療界では日に日に医療人に対する患者の不信o不満が募り、少しのミスも許されない状態で、医療人もこれを敏感に感じ、危険な、合併症を来たしそうな治療を避けようとし、「保身」、「保身」へとなりつつある。
このような折り、米国ハーバード大公衆衛生学部のDevid M.Studdertは「保身医療」が日常茶飯事に行われていると報告した(日経メデイカル、2005,7号より)。彼はペンシルベニア州の保険料が一般外科の場合、2000年では3万3684ドルであったものが、2003年には7万2518ドルと劇的に値上がりしていることに注目し、医療過誤が最も起こりやすく、その上、賠償責任保険料が最高である救急医療、一般外科、整形外科手術、神経外科手術、産婦人科、放射線科医1333人を対象として調査した(回答率65%,平均年齢50歳)。その結果、医療過誤を避けるために医学的に不必要な検査のオーダーや薬の処方、生検のような侵襲的な処置など、いわゆる「保証行動(積極的保身医療)」を59%の医師が行っており、特に救急医療では70%と有意に高かった。医師達が最も懸念していたのは「ガン」の見落とし(24%)で、その他、過剰な薬の処方(33%)で,不必要と思っても画像検査を行ったり、専門医へ紹介する必要がないと思っても専門家へ紹介したり(52%)、頻回に生検(32%)を行ったりしていた。一方、医療ミスを極力少なくするために必要とされる特定の処置o介入を行わず、また、ハイリスク患者の治療は行わないなどのいわゆる「回避行動(消極的保身医療)」を取った医師は32%で、中でも整形外科が57%と最も高かった。これらの保身医療の原因は賠償責任保険の適用範囲が限られ、さらに保険料が高いことであった。
私が医師になった昭和40年ごろは急性虫垂炎の診断は綿密な予診、全身および腹部の診察と白血球数の検査だけで診断し、手術を決定すれば胸部写真、心電図検査のみで事足りた。これが今では不必要と思ってもあらゆる検査を行い、万全の体制で対応する。その原因は万が一訴訟になった際、必ず、検査を行っていないため、安易に手術に飛びついた、いわゆる不注意に基ずく医療ミスであると判定されて、医師の敗訴となるからである。過剰検査で訴訟されたり、敗訴になるケースは極めて稀である。一番大切な診察にはいくら長時間かけても、その労力と結果は評価されず、数値で示された事は絶対的なものと評価されるので、患者の訴えで行う検査が決まり、検査結果で診察したり、時には診察もしないで治療するようになる。
病院経営からも診察に長時間をかけても、収入増に繋がらないが、検査は確実に収入増となる。面白いが笑えない話がある。新臨床研修制度が始まり、若い医師が患者さんを受け持つようになった途端、外来・入院診療単価が前者では約2000円、後者では10,000円ばかり高くなった。院長は収入が増えた、スタッフ全員の病院経営意識の向上だと喜んだ。ある病院長は新臨床研修医を他の病院より高額で雇用しても病院経営にプラスになり、決してマイナスにはならないと豪語していた。その話の「落ち」は新臨床研修医は先が見えないから、不安であるため、片っ端から検査するので、検査料が跳ね上がり、最終的に病院の収入増になることであった。新臨床研修医が多くの検査をするのは無知と不安からであるので、経験するにつれて改善されるが、「保身医療」、「回避医療」は社会的構造から自然的に発生したものであるから、増長するばかりである。
「保身医療」はお金の問題で、一方、ミスを見逃さないことにもなるので、理解出来る部分もあるが、許されないのは「回避医療」である。これが横行すると助けられる貴重な生命がむざむざ失われることになる。ある有名な政治家が腹部大動脈瘤破裂で手術が必要であった。この方面の著名は医師が招集され、それぞれが診察し、結果、「手術の時期を逸し、適応がない」と判断され、そのまま経過観察となったという有名な話がある。腹部大動脈瘤破裂が経過観察で治癒するのは例外中の例外で、手術しか救う手だてはない。しかし、患者が著明な政治家であるだけに、成功の可能性の薄い手術に積極的に立ち向かい、不幸な結果となった場合を考慮すると、上記のような結論となる。これも一種の「回避医療」である。少しでも生命を救う可能性があれば果敢に立ち向かうことが医師の美徳とされていたが、医療裁判では適応でない病気に手術を行い、患者を死に至らしめた暴挙となる。しかしながら、このようなクリテイカルな患者では致し方ない面もあるが、すぐ結果の出ないガン疾患へのリンパ節廓清が「回避医療」のため、不十分に行われて、それが日常化されているならば、正に医学の崩壊である。
冒頭の5年生存率の格差の違いを徹底的に追求しなければ、患者迷惑の「回避医療」はますます蔓延することになる。



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