Kensuke Esato,M.D.
江里 健輔
 
江里 健輔
山口大学名誉教授
山口県立大学学長・理事長
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その他

もの寂しい農業政策
2008年06月17日

棚田と荒れた休耕田
                 
山口県立大学学長
                        江里 健輔


小学校1年の時、終戦を迎えました。戦中・戦後食糧が不足し、日本国民全員が食糧確保てんやわんやの状態でした。私が住んでいた地域の住民は農業や漁業で生活をしていましたので、食糧に不便を感じることはない筈ですが、毎日が食糧確保に汲々としていました。それは当局のきびしいお米の「供出」制度があったからです。当時、政府は国民の食糧を確保するために、農民に強制的にお米の「供出」を命じていました。私の父は部落長をしていましたので、「供出米」の相談で、私の家で毎晩、毎晩集会が持たれていました。当時,反当たり4〜5俵が普通の収穫でしたので、収穫量が大ざっぱに計算でき、それに応じて、「供出米」が割り当てられていました。しかし、実際は田地により収穫量が異なり、一律に供出米量を決めることは難しく、いつも、いつもけんか腰でした。
「うちの田は水はけが悪いので、毎年不作で、1反につき4〜5俵収穫することはありません。とてもそれだけの供出は無理です。死ねと言うんですか」
「食べ盛りの息子が5人もいます。いくらお米があっても足りません。政府の命令を聞くわけには参りません。部落長なら、それぐらいのことを申し出てくださいよ」
などと、最後はお互い泣き落としの会話となっていました。それらの会話を襖一枚隔てた隣の部屋で聞きながら、子供ながら、汗水垂らしながら作ったお米を自分達の食い代を削りながら、供出しなければならない制度に憤りを感じたものです。そのような状態でしたから、牛を使って、お米が出来そうな土地ならどんなに狭くても、朝は太陽が昇るまえから、夕方は西に沈むまで耕して、収穫を増やすように努めたものです。
時代は移り、外国から沢山の肉類が輸入され、その上、お米よりパンの方が体に良いなどと云われ、食の洋風化がお米離れをもたらし、お米を食べなくなり、次第にお米が余ってきました。それに伴い、政府も。奨励金を出して、休耕田を設けることを奨励しました。その結果、あっち、こっちに荒れた田地が見られるようになりました。今や、中山間地域の農地の26%が耕作されず放棄されたため、荒れ地となり、復元不可能で、それは埼玉県の面積に相当し、さらに、田地は毎年3〜4万ヘクタール程度減り続けているそうです。
一方、今では「棚田」と称して、観光客の見せ物として人気を呼ぶようになりました。地元を離れ、東京に住み着き、何十年ぶりのクラス会で久しぶりに帰ってきた友人が
「棚田は美しいが、あの土地でお米をつくるのは大変じゃろう。農家の人に同情するよ。何故、お米がつくりやすい平地を休耕田にして、あんなお米を作りにくい田を休耕田にしないのかな?」
「観光のためだろう」
「農家の人にはいい迷惑だネ」
それでも彼は少・中学生時代に油谷のような田舎に住んでいたので、農家の痛みがわかり、同情的な発言になりました。
しかし、最近は休耕田への見方も変わってきました。日本への食の輸出国であった中国が2004年より輸入国へ転じ、米国では、トウモロコシがバイオエタノールへ活用されることが判り、大豆畑をつぶしてトウモロコシ増産へと転換されるに伴い、大豆の7割が米国から輸入されていましたが、今後その保証がなくなり、40%以下の食自給率を上げる必要に迫られてきました。そこで、政府は突如、農地放棄抑制策を掲げ、農地を借りて耕作する耕作者への助成金交付、企業への農地貸代事業、団地の世代のU-ターン促進などを積極的に行うようになりました。
このように、戦後には自分達の食い代を犠牲にしてまで供出米を出させ、そのうち、外国から食品がどんどん輸入され始めると、お米を作るな、と責めため、今では再び食糧増産にかき立てられています。食を確保することは立国の基盤となる重要な職種ですので、どのように社会が変わろうと、その基本は頑固に守るべきです。体にむち打って、朝早くから夕方遅くまで汗を流された農家の人々の歴史が観光名物「棚田」という名のもとに、次第に風化されてきていることになんとも言えない寂寥感をおぼえます。教育にせよ、医療にせよ、国の根幹に関わることが如何にも安易に節操もなく変革されることに不安を感じる今日この頃です。




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