Kensuke Esato,M.D.
江里 健輔
 
江里 健輔
山口大学名誉教授
山口県立大学学長・理事長
執筆情報 [詳細ページ]
癒やしのそよ風(ほうふ日報)

お婆ちゃんの試み NEW
2008年08月24日

お婆ちゃんの試み
                      
山口県立大学理事長(学長)
                        江里 健輔


あるお婆ちゃんの話です。
自宅の前をいつも小学高学年生を先頭に通学する集団に出会うので、
「おはよう」
と挨拶すると、元気のよい
「おはようございます」
という言葉が返ってくるので、自分に元気を与えてくれるようで、それがお婆ちゃんの楽しい日課になっていたそうです。ところがいつまで経っても挨拶しない高学年の子がいることに気づきました。
「今日はいい天気だね。今日も、元気で、しっかり勉強してよ。おはようございます」
と問いかけても、他の児童は
「お婆ちゃん、お早うございます」
と返事をするのに、その子だけが、ぷいと横を向いて、黙って通り過ぎてしまいます。この子には挨拶したくない理由があるのかもしれないが、とにかく小学校を卒業するまでには是非挨拶するようにしてやろうと決心したそうです。
毎朝、お婆ちゃんの楽しみが増え、なんだかそれが生き甲斐のようになったそうです。
天候がどんなによかろうが、悪かろうが、毎日、自宅の前に立って
「お早う、今日も元気で、頑張ってね」
とわざとその子に大きく聞こえるように送っても、相変わらず、ぷいっと顔をそらして挨拶してくれなかったそうです。お婆ちゃんもあの子からはもう「お早う」という返事はもらえないと、半分諦めていました。
ところが、驚いたことに、その子が卒業式の日にお婆ちゃんを訪ねてきたそうです。
「お婆ちゃん、長い間、挨拶しなくて済みませんでした。僕も今日で小学校を卒業し、4月から中学校に入ります。それで、お婆ちゃんの家の前を通るのは今日が終わりです。長い間、僕たちを見守って下さって有り難うございました。これからも小学校に通う子がお婆ちゃんの家の前を通りますので、声をかけてやって下さい。よろしくお願い致します」
お婆ちゃんは本当にびっくりしたそうですが、とても嬉しくなって、
「もう、卒業かね。中学校に入っても真面目に勉強してね。挨拶もしっかりしてね」
と励ましの言葉を贈ったそうです。
その子は
「僕が挨拶しなかったのは特に理由があったわけではありません。ただ、何となく、したくなかっただけです」
と言ったそうです。
お婆ちゃんはその言葉を聞いて、返す言葉がみつからなかったそうです。そして、自分の「お早う」という挨拶に返事を求めるような何か圧迫感を与えるような側面があったのではないかと不安になったとのことです。
作家の遠藤周作氏の言葉に「善魔」があります。これは第三者に良かれと思ってしたことが、その人にとっては大変迷惑である場合のことを意味します。本人は良かれと思っていますので、決して止めようとはしません。その人は拒否するのも悪いと思い、それが上司である場合はなおさらです。そのうち、第三者は次第にその人と距離をおくようになってしまいます。その人は「あれだけ世話をしてやったのに、お礼も言わず、離れていくとは失礼な奴だ、礼儀知らず」と一方的に決めつけてしまいます。
このお婆ちゃんの話も「善魔」に相当するかもしれません。お婆ちゃんの「お早う」という言葉の中に返事を求めていた雰囲気があり、その子は命令調と受け取ったのかもしれません。
「最近の若い者は挨拶をしない」という会話を良く聞きますが、若いものから先に挨拶するのが当たり前だというパターナイズム(父権主義)が年長者にあり、それに対する反発があるのかもしれません。お婆ちゃんのように無理矢理その子に挨拶するようにさせてやろうという姿勢ではなく、年長者が自然体で挨拶をすることが欠けているのかもしれません。



[ もどる ] [ HOME ]