Kensuke Esato,M.D.
江里 健輔
 
江里 健輔
山口大学名誉教授
山口県立大学学長・理事長
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その他

間違っている今の医療 NEW
2009年03月01日


間違っている今の医療のあり方
              山口県立大学理事長(学長)
                     江里 健輔
医者、学校の先生、易者がもて囃される時代の国民は不幸であると云われています。そう云われれば、易者はともかく、医者や学校の先生という職業は良くやって当たり前、予期せぬ結果になればさんざん非難されるのがおちです。つらいといえば辛い仕事であります。私は現在の職場に赴任するまでは、外科医として診療に携わる一方、大学で医師を育てる仕事を生業とし、誇りを持って家庭を顧みずに邁進してきました。確かに医師という職業はイタリアのボロニヤで最初に設けられた大学が神学部、法学部、医学部、教育学部から構成されていたように、他の職業よりも奉仕が求められ、期待される、即ち、聖職として社会からも特別視され、大切に育てられ、発展して参りました。しかしながら、最近、この風潮がどうも怪しくなってきました。どうしてこのようになったのか定かでありませんが、私なりに考えてみたいと思います。独断と偏見があるかもしれませんが、どうかご勘弁願いたいと思います。
1) 医療はサービス業か?
医療がサービス業と唱えられ始めたのが何時か知りませんが、歴史的には1970年にアメリカ合衆国で少数派または社会的弱者の解放が怒濤のように起こり、この流れの中で、患者さんは弱者と見なされることで、それまでは聖域であった医療が、市場経済の枠組みの中で、患者さんは“顧客”として位置づけられるようになりました。そこで、医療は患者の権利を擁護し、提供するサービス業と捉えられるようになりました。
サービス業というからにはサービスを提供する人(サプライヤー)と受ける人(ユーザー)、“顧客”が存在することになります。“顧客”には100%の満足を与えるのが、サプライヤーの義務であります。従って、“顧客”のクレームが必ずしも正しくなくても、あるいは、身の覚えのないような非難・批判であっても、平身低頭しなければなりません。それはただ一つ、事業の発展を願うからであります。医をサービス業と捉えるならば、不愉快に感じた患者さんに不愉快に感じさせたことに対し、医療人がひたすら平身低頭するのは当たり前ですが、サービス業でないとするならば、平身低頭しなければならないことに違和感となります。
私は医療はサービスではなく、奉仕であると思っています。奉仕と思うから、患者さんの病態が悪化すれば自己を顧みず、場所、時間に関係なく病院に出かけ、治療するのです。奉仕とは報酬を度外視して国家、社会、人のために尽くすこととされています(金田一京助:新明解国語辞典)。だから、医師には労働者としての認識が薄いのです。しかし、医学・医療が進歩し、医療環境が複雑化するにつれて、医療事故が増加し、一方、“顧客”としての患者さんの権利意識、さらにはいろいろなニーズが高まるにつれて、社会から痛烈に非難され、連日、新聞を賑やかすようになりました。
私がバスで医局旅行をした時、法律で定められた運転距離(300km/日)を超過するので、もう一人の運転手が同乗し、最終目的地まで10kmを残した場所で運転を交代されました。この様子を見て、「運転手さんはいいなあ・・・・」と医局員が思わず一斉に叫びました。医療が奉仕とする限り、このような交代は外科医にとっては有り得ないことで、異様に映ったのです。
日本の医療はまだまだ医療人と患者さんとの個人的信頼関係で成り立っています。欧米のようなチーム医療の重要性が叫ばれていますが、あくまでも担当医あってのチーム制であり、患者さんにとって担当医は唯一頼れる神様に見えるのです。従って、神様が頻回に変わってもらっては困るのは当然であります。この信頼関係が対価を求めるサービス業の上になり立っていることは患者さんにとっても、医師にとっても不幸なことです。
患者さんも医療はサービス業ではないと思っておられます。何故ならば、本当に世話になったと思われる時には感謝の念を謝礼という形で古来表現されてきたからです。医師への謝礼の妥当性については問題視されていますが、医療がサービスであれば、謝礼しようとする気持が生まれる筈もありません。お礼したいという気持は医療が奉仕であると認識するからです。有史以来、日本独特の良き慣習は奉仕の精神に培われています。
身体の苦しみを和らげることを業とする医療を単なる経済至上主義的立場からサービス業と位置づけるのは“感謝”という気持を反古にするなにものでもありません。

2) 医療は利益追求の場ではない
医療訴訟は増えてきています。この原因の一つは医療がサービス業と考えているからであります。明らかな医療ミスは論外ですが、「病気を治して下さい」、「治しましょう」という約束が守れなかったという理由で訴訟になる場合がしばしばあります。契約社会で成り立っている欧米では日常茶飯事ですが、本邦でもこの傾向は年々強まり、医療人を一番悩ませているところです。1990年初頭ごろ、産婦人科訴訟が増え、それにつれて産婦人科を希望する医師が極端に少なくなり、20年後の今、産婦人科医の不足を招いているのです。自分達が蒔いた種ですから、仕方ないと云ってしまえばそれまでですが、一番の犠牲者は国民ということになり、簡単に済まされることではありません。
著明な経済学者アダムスミスは
「世の中には利益追求で、あとは市場競争に任せれば結果はうまくいく」と述べています。すなわち、対価を求める業務はいずれも利益追求するのであるから、どんどん競争させれば、勝者と負者が明確になるので、人と人との争いはなくなり世の中がうまく治まるという意味と解釈されます。最近では医療にもこの競争原理が導入され、利益追求の会社参入が問題になっていますが、医療は利益追求型で、すべてうまくいくでしょうか?
医療における患者さんと医師との関係は教師と生徒との関係に良く似ています。どちらも弱者と強者との関係で成り立っています。生徒の知識は先生より、また、患者さんの医学知識も医師より乏しいので、いずれも受け身です。契約は自立した人間同志の間で成立するものですから、医師と患者さんとの間では契約は成り立ちません。成り立つものは信頼しかありません。
したがって、医療に利益追求会社を導入することは大きな間違いです。治療するためには他人を裸にして、触り、時にはメスを入れたり、人工加工物を人体に挿入・留置します。いずれも医療人にはモノ、カネでは計算出来ない倫理が必要です。道路で倒れた人に遭遇した時、思わず、救いの手を差し出します。手を差し出す時、出そうか、出すまいか、お金になるだろうかなどとは考えません。手は反射的に出ます。これが体感で、人間としての真の姿です。医療が完全に契約で、利益導入になりますと、患者さんの状態に関係なく、約束された時間内に診察すればよいことになります。そうすれば、医師は責任が持てなくなりますので、確実に治せる病気だけを引き受け、重症な、何時悪化するかもしれない病気は頻回に呼び出されますので、引き受けるのが難しくなります。患者さんと医師との間には非常に殺伐とした関係が成立するだけです。
このように考えると、人の苦しみを糧にお金を儲けようとする商売に医療をしてはなりません。医療はサービスではなく、奉仕であるべきです。対価を要求するのではなく、治して貰った、元気にさせて貰ったという感謝の気持ちがお金に代わるべきです。
本来ならば、医療を受ける人、提供する人、教育を授ける人、授けられる人などへの対価は裁判官のように政府が面倒みるべきです。
それには元気な時、若い時、物質的な負担、たとえば税金が多くなるのも仕方のないことかもしれません。

おわりに
もの心ついた頃より、父が「お金を貯めろ、貯めろ」と口酸っぱく申していました。その理由は病気になった時、莫大な医療費が必要となるから、お金がなければ医療も受けられないという危機感があったからです。しかし、我が国では世界に冠たる総国民加入の医療保険制度が設けられて、保険証があれば、何時でも、何処でも最高の医療が受けられるようになりました。このような世界に誇れる保険制度が医療費の高騰、日本経済の破綻という名目で崩壊寸前の状態にあります。少子高齢化で医療費が高騰するのは当然で、高齢であるとの理由で治療しないというわけにはまいりません。出来るだけ長生きして貰うように努めるのは医療人の使命であり、患者さんが希望されるならば、あらゆる手段を駆使して治療することが求められ、これを医療費の無駄使いと罵ることはあまりに現実ばなれしたコメントであります。
しかしながら、医療を金儲けの手段と考えている医療人がいることも確かです。その場合にはどこで線引きするかが大きな問題であります。
世界的な移植医スターツル先生は
「無限の医療、有限の財源」
と云われています。医療に限界はありません。そのようなことに思いを巡らすと、医療人を裁判官のような制度で処遇にすることで、患者さんが期待する医療が維持されると思います(防長倶楽部、平成21年3月)。



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