Kensuke Esato,M.D.
江里 健輔
 
江里 健輔
山口大学名誉教授
山口県立大学学長・理事長
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その他

このギャップに悩んでいます
2009年05月31日

国保“燦”
(平成21年5月)

このギャップに悩んでいます
             山口県立大学理事長(学長)
                      江里 健輔

これから1年間にわたり、この欄を受け持つことになりました。私の約40年間にわたる医療人としての経験をもとにいろいろな方面から医療を取り上げてみたいと思っています。どうかよろしくお願い致します。

今回は医療人の一つの悩みを聞いて下さい。

78歳の男性が外来に来られました。
「最近、腹に脈を打つコブが触るんです。痛くもありませんので、ほっといたんですが、なんだか少しずつ大きくなってくるものですから・・・」
診察させて戴き、
「これは腹の大きな血管の一部が弱くなって、そこだけが膨れている病気、すなわち、腹部大動脈瘤ですね。大きくなると、破れるかもしれませんので、CT、超音波などの検査をしてみましょう」
そう言いながら、手術を勧めるべきか逡巡していました。CTの検査では予想した通り、最大の大きさが4.0cmでした。最大径が4.0cmの腹部大動脈瘤の場合には、絶対に破裂しないとも言えませんが、破裂する可能性は数%以下です。しかし、7cm以上にもなりますと、破裂する可能性が高くなりますので、早急に手術する必要があります。破裂しないうちに手術すれば、手術死亡率は絶対安全ではないですが、1%以内です。破裂すれば、50%以上になります。そのような治療成績を踏まえて、
「腹部大動脈瘤に最大径が4.0cmですから、手術を絶対しなければならぬものではありません。しかし、破裂して手術すれば、その死亡率は50%以上ですので、出来れば元気な今、手術された方が良いでしょうね。絶対破裂しないと保証できれば、様子をみることができますが・・・」
「今、すぐに破裂する可能性は少ないのですね。それに今、手術しても絶対安全であるという保証もありませんね。それならば手術する気持になりません。それに、もう78歳ですから、これ以上痛い目にあって生きたくもありません」
「でも、破裂すると、死亡する確率が高くなりますから、手術されては如何でしょうか」
と一歩前踏み出て、進言しましたが、
家族が
「お爺ちゃんが、こう申していますので、好きにさせてくれませんか?先生」と言われたので、手術を勧めることを止めました。
半年後、突然、
「先生、腹部大動脈瘤破裂の患者さんです。緊急手術をしなければならないと思いますが、手術出来るかどうか決めて欲しいのですが・・・」
という電話がありました。
患者さんを診察しようとお顔を拝見すると、なんと、半年前に受診され、手術を拒否された患者さんだったのです。患者さんは苦悶状態で、早くどうかしてくれ、と言わんばかりです。家族は
「先生、以前はどうも申しわけございませんでした。先生の言われるように、あの時、手術を受けていればこのようなことはなかったのですが、申しわけございません。どうか手術をしてやって下さいませ。お爺ちゃんも希望していますので」
と平身低頭しながら、懇願されます。
最初の受診時には、もう78歳で、痛い目まであって生きたくない、何時死んでもいい、だから、手術したくないと言われたのにと、なんとなく割り切れぬ思いでした。幸い、手術はうまく運び、元気で退院されました。
今、日本の医療費は少子・高齢化社会で年々増え、このままでは国民皆保険制度を維持することもいずれ困難になるのではないかと危惧されています。当局はこのような懸念を払いのけるように、次から次へと医療費抑制策を打ち出しています。
腹部大動脈瘤手術で係る費用(診療報酬)は待機手術(手術日を決めて予定通り手術するもの)では543,000円であるのに対し、この患者さんのように時間外で行い時には40%
増しの760,200円、深夜では80%増しの977,900円と待機手術より高く、さらに、通常では患者さんの全身状態も悪いですから、術後管理、入院期間などもろもろの医療費が高くなります。医療費の面のみから考えれば、この患者さんが初診時に手術されていれば、医療費も少なくて済みますので、医療費を無駄に費やしただけで褒められたものではありません。
医療は常に発展途上にあります。100%確実で、安全な治療はありませんし、これからもあり得ないでしょう。しかし、患者さんは100%を望まれます。医療への思いは患者さんと医療人では大きなギャップがあります。絶対安全な治療が確立すれば、この両者のギャップは解消するでしょう。しかし、その途上にある医療を受ける患者さん達は不完全なまま、その時、その時に最上と思われる治療を受けざるを得ません。この患者さんにも手術が100%安全であれば、もっと積極的に手術を勧めたでしょう。今では「最善を尽くして戴いたら、結果はなるようにしかならない」と思って戴くことに頼るしか方法ありません。数十年前に行った治療法は今の医学水準からすれば確かに拙劣な面もありますが、今、それが悪い、不備だと非難されても、反発する気力も出ず、ただ、意気消沈するだけです。
医療人はその時点で最善を尽くそうとし、一方では、医療は発展途上の未完成な状態であることも認識して欲しいものです。




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