Kensuke Esato,M.D.
江里 健輔
 
江里 健輔
山口大学名誉教授
山口県立大学学長・理事長
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その他

終末期における人間の本性 NEW
2010年01月31日

終末期における人間の本性
        
昨年のデータですが、自分が余命6ヶ月以内の末期で回復の見込みがない場合、貴方はどのようにされますかというアンケート調査で興味ある結果が報告されています。それによりますと、「延命治療を望まない」37%,「どちらかと言うと望まない」34%で、計71%が延命治療を望んでいません。特に、医師では52%,看護師では54%と一般国民よりはるかに多かったことです。医療人はむなしい、期待感のない延命治療のもたらす意味を一般国民より体感しているために、このような数字となったのでしょう。
(朝日新聞、2008,10,28)。

この数字を真に受けていいのでしょうか?

医師が全治不能な病気に罹患した時、どのような本性を見せるかは興味津々です。何故かと言えば、治療の効果を知っていますので、未来の自分の有り様が見え見えだからです。
終末期に対照的な姿を見せられた二人の先輩医師を紹介しましょう。
Aさんは約100床の病院長でした。病院一筋に、患者さんのために全身全霊を込めて、昼夜を分かたず働かれ、病院経営も順調でした。最近、疲れやすく、風邪気味だからと奥様に勧められて、精密検査を受けられたところ、膵臓ガンがみつかりました。膵臓ガンは今でもそうですが、如何なる治療にも抗する予後不良な疾患で、手術しても、平均余命1年ぐらいです。病院スタッフが日本で治療成績が良いと言われる有名病院と有名外科医で手術を受けることを勧めましたが、
「この病院は俺が作った病院だ。患者さんには俺の病院で手術を受けることを勧め、自分はほかの有名病院で手術を受けるなど、患者さんに失礼だよ。だから、俺は俺の作った病院で手術を受け、それで死ぬのであれば、それも本望だ。お前達の気持は有り難いが、どうしてもと言うなら、お前達の勧める外科医を連れてこい。おれはこの病院から出る積もりはまったくない」
と申され、私に白羽の矢がたちました。事情を聞き、手術させて貰ったのですが、手術後2年目で鬼籍となられました。
Bさんは約60床の病院の院長さんでした。世話好きの方で、多くの若い医師の信望も厚く、尊敬され、外科医の鏡と申しても過言でない医師でした。ある日、Bさんが突然相談したいことがあると電話されてきました。何事かと思案していると
「実は膵臓ガンに罹っていることが判った。それも約10センチメートルに及ぶ大きなものであるそうな。今後の事で相談にのって欲しい。まず、どこで、誰によって手術するか、俺が留守の間、大学が病院をサポートしてくれるか?」
などなどでした。Bさんは日頃から病気になったら、母校に入院し、治療を受けたい。それが母校を愛することだよ。俺の母校は日本でも優秀なスタッフが揃っているので、わざわざ東京のような遠方まで出向き、治療を受けるようなことはもってのほかだ、と申しておられ、私も自分の身体を母校に預けるような意思に敬服していました。そのために、この話しを聞いた時、当然、私が勤務している大学で手術を受けられるものだと思っていましたので、
「早速、入院予約をし、部屋を用意しておきましょう」
と話しましたところ
「うん・・・、だが・・・」
と言いながら
「実は家内が『手術を受けるなら、日本のトップの膵臓外科医に手術をして貰って下さい』と涙ながらに懇願するんじゃ。家内の気持ちを無視することも出来ず、東京の○○先生の手術を受けようと思っている。やはり、命は一つしかないからなあ」
私は
「先生は病院の事も気になるでしょうから、ここを離れられるのも不安でしょうから、私がその先生を大学に招聘し、大学で手術して貰いましょうか?」
と申しあげたところ
「そうだな、でもなあ、東京の先生が云われるのは『手術はうまくいっても、術後管理がうまく出来ますかな、上手な術後管理をして貰わないと、私の手術成績が下がりますので。私はそのような施設であまり手術したくありませんね。それとも、術後管理の出来る私の仲間の医師を派遣しましょうか』と云われたのだか、そこまで言われると俺もそれ以上強く言えないし、俺が東京に行けばいいのだから。そう言うことで、東京で手術を受けることにしたよ」
となんらおくびれず申されました。日頃の発言とあまりに違うので、後輩として、戸惑いと不信を感じつつ、これ以上反論も出来ず、言われるままに従いました。残念ながら、東京で手術を受けられたが、摘出不能でした。その後、東京から戻られ、大学に入院され、医局員の手厚い管理を受けながら、術後3ヶ月目に鬼籍となられました。
AさんとBさんとで、自分が手術を受けることになった時の対応が全く異なります。どちらが正しいかということではなく、終末期に置かれた人間の本性が生々しく伝わってきます。Aさんの場合は終末期の自分の有り様をしっかりと見つめ、ぶれることなく、たち振る舞われたと思います。Bさんの場合、平素の言葉と裏腹で、自分のこととなると、自己中心的にならざるを得ず、生きたいという本性が全面に出て、それを家内の意見として我々に告げ、望みを達成しなければならないことに、Bさんの苦悩に涙せずにはおれません。
しばしば「うちのお婆ちゃんは日頃から死にたい、死にたいと言っていたから、あまり苦しまず死にました。大往生でしたから、幸せものであったと思います」と述懐されるのを聞きますが、本当にそうなのでしょうか?
答えは「ノウ」です。
「死にたい」という言葉の裏には「今の苦しみから逃れたい、楽をしたい。でも、方法がない。これを叶えるものは『死』しかない。だから死にたい」と申されるに過ぎません。従って、極限状態にある人の言葉をそのまま安易に受け取ると取り返しのつかない悔恨となります。多くの人がAさんのような態度をとることは難しく、Bさんのような態度を示すのが自然です。医学・医療が進歩するにつれて、命を長らえさせることは技術的にはそれほど困難なことではなくなっています。避けることの出来ない終末期をどのように迎えるかは常日頃から、家族と話しあっておき、書面に書き遺しておくことが求められているように思います。




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